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なんちって哲学
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生と死

 ヒトの生は、死を境にして終わりを告げる。そういう意味で、死は生の一部かもしれない。

 一方、ヒトは生まれた瞬間から死への歩みを始めている。そういう意味で、生は死の一部かもしれない。

 生と死の関係とはどのようなものだろうか?

1999/12/14(Thu)
正常と異常

 正常と異常は多くの面で重なった部分を持つ。

 例えば、生まれつき目が見えない人にとって、その目が見えないという事は正常であるように思う。
 しかし、生まれつき目が見える人にとって、目が見えない事は異常であるように思う。

 ある意味では、生まれつき目が見えない人にとって、目が見えるという事は異常であるかもしれない。
 しかし、生まれつき目が見える人にとって、目が見えるという事は正常であるように思う。

 ある人にとって正常である事が、ある人には異常となり得る。
 果たして正常・異常とはどういうことだろうか。

2000/01/12(Wed)
寿 命

 人の寿命は長い。これはなぜなのだろうか? 人が生きる根本的な理由は「種の保存」だと言われる。では、人が生理機能を失ったのち数十年も生き続けることができるのには、何か意味があるのだろうか?

 例えば、ミツバチの雄は射精した後、瞬時に死んでしまう。女王バチは全ての受精卵を供給した後、雄の働きバチに殺される。

 このように生理機能を果たすことで必然的に死を迎える生物は少なくないのである。もちろん人間の場合にも、生理機能消失後には更年期障害のような身体的変化が現れる。ミツバチなどの小さな生物は、このような変化に耐えられなくて死を迎えるのだろうか? それとも、寿命を短くすることで、うまく環境変化へ適応しようとしているのだろうか?

 生理機能消失と共に死を迎えるものと、生理機能消失後も生き残るものを分ける要因は何だろうか?

参考文献:柳沢桂子『われわれはなぜ死ぬのか』(草思社)

2000/01/12(Mon)
知 能

 人間の知能はとても発達している。賢いかどうかは別として、知能についてはあらゆる動物の中で最も優れている。これに疑問を抱く者はいないだろう。

 しかし、ここでひとつの疑問が生まれてくる。なぜ人間の脳はここまで発達したのか? ある意味、必要以上に発達しすぎているように思われる。それが故に核爆弾などの我々の生存を脅かすようなものまで作り出してしまったのだ。果たしてここまで発達する必要があったのか?

 進化の過程において必要のないものは退化していくというのが通説である。これは日常的にも実証できる。例えば、長期の入院などにより筋肉をあまり使わないでいると、すぐに筋力が衰えていくというのは有名な話であろう。進化の過程で退化したものとしては、尻尾があげられる。これは我々が生命活動を営む上で必要なくなったので退化したものである。

 では、なぜ脳は必要以上に進化することになったのか? やはり言語というものが大きな要因ではないだろうか。言語の獲得により教育・学習の効率が飛躍的に高まった。つまり言語による伝達が知識の蓄積を可能としたのである。よって、我々の知能が退化しようとも、人類の持つ知識は増加の一途を辿ることになる訳である。

 ただし、実際のところは、現在 知能低下が嘆かれているように、人間の脳は退化してきているのかもしれない…。

2000/01/12(Fri)
友 達

 私が考える友達とは、「馬鹿」や「阿呆」のような汚い言葉でも平気で言い合える関係です。つまり、『口では「馬鹿」と言っていても、本心ではそう思っている訳がない』という絶対の信頼を持ち続けられる関係、それが友達だと思うのです。少しでも傷ついたり、ムカッときたり、戸惑ったりするのなら、それはまだ信頼関係が築けていないということではないのかな?と思います。

 言いたいことが言える、相手の欠点を知っている、悩みを相談できる、一緒に笑える・・・本当の友達とは、そのような存在ではないかと思います。もちろん良いところしかない人間などいないと思いますが、欠点も含めて好きと思える人。それこそ本当の友達だと思います。

2000/04/28(Fri)
強 さ

 本当に『強い』とは、どういうことを意味するのでしょうか? 辛いことがあっても挫けずに頑張れること…確かにこれも一つの強さと言えるでしょう。では、辛いときに素直に「辛い」と言えること…これはどうでしょう? 弱音を吐いているから弱さを示しているのでしょうか? 私は違うと思います。人に弱音を吐くのもまた、強さが必要なことだと思います。弱音を吐くことは、決して悪いことではありません。弱音を吐くことは、後退していることを示すのでしょうか? 私は違うと思います。他人に励まされ、もしくは何かアドバイスをもらって、自分だけでは進めなかった前へと進もうとすることだと思います。自分だけで悩みや辛さを抱え込み、その重さが故に前に進めなくなるより、よっぽど強さを持った称えるべきことだと思います。自分だけで何とかしようとすること…これこそある意味で弱さを示すものだと思います。

 私は小学生の頃、いじめられていましたが、いじめられて帰った日は、泣きながら母に「○○くんにいじめられた。」と話しました。別に話すことでいじめを解決する糸口を見つけようと意識していた訳ではありません。母にいじめを止めてくれと頼んでいた訳でもありません。ただ、私の話を聞いて欲しかった。私がいじめられていることを知っていて欲しかった。自分のことを心配してくれている人がいる…そう思うだけで、少しは気持ちが安らぐものです。

 優しい人の中には、相手に心配をかけたくないからと言って、一人で悩みや辛さを抱え込む人がいます。でも、本当に悩みを解決したいと願っているのなら、辛さを乗り越えようとしているのなら、時には他人を頼ることも必要です。相手に心配をかけたくないというのは言い訳に過ぎません。その人は恐れているのです。話しても何も変わらないと諦めているのです。いくら相手に心配をかけようとも、最後に解決するのは自分だと分かっているから、話すことで自分が頑張らなければならなくなることを恐れているのです。

 中には、周りに弱音を吐けるような人がいないからと言って、一人で悩みや辛さを抱え込む人がいます。でも、それは弱音を吐く相手を探す努力を怠っているだけです。弱音を吐いたこともないのに、初めから話しても無駄だと諦めているだけです。必死に探したら、絶対に貴方を支えてくれる人が見つかるはずです。一人に話してもダメなら、他の誰かに話してみたら良いのです。もちろん、それには大変な勇気がいるのでしょうけど…人に弱音を吐く勇気を持って欲しいです。

 …上の文章を読んで、「苦労を知らないお前が何を言うか? 何も分かっていないくせに…。」と思う人がいるかもしれません。でも、私も小さい頃にいじめられて育った人間、病気と共に生きることを余儀なくされた人間…辛いことだってあります。でも、私は何とか前に進もうと努力してきて、今を私なりに生きているのです。何もせずに今を生きている訳ではありません。

2001/05/26(Sat)
才 能

 私は才能というものを信じている。成功の秘訣は、「1%のインスピレーションと99%のパースピレーション」、つまり「1%のひらめきと99%の努力」…なんて言われたりしている(エジソンの真意は違うらしい)が、私はそうは思わない。“努力”というものは、あくまで才能を補い強めるものに過ぎないと思う。だから、才能がないものがいくら努力してみても、さほどは伸びない。才能があるものが努力すれば、それなりの結果を残すことができる…そう考えている。

 努力…素敵な言葉に聞こえるが、努力なんて簡単にできるものではない。誰かに強制されてする、もしくは嫌々ながら仕方なくする…そんな感じである。努力とは苦しいのに我慢して頑張ること…だから、人は努力を美徳と考えるのであろう。

 しかし、本当の努力とは気付かないところで行われているものだと思う。ここで、さきほどの才能の話と繋がるのだが、あることを「好き」だと思えるのは、そのことに対する才能がかなりあるということである。なぜなら、努力を楽しむことができるから。他人から見たら凄い努力をしているように見えても、当人には努力をしている自覚もなく、ただ好きなことに熱中しているだけなのである。

 また、もうひとつの才能の定義として、私は「イメージする能力」というのを挙げたい。つまり、成功した自分の姿を想像できない者に成功は掴めないと思うのである。成功した自分をイメージできるということは、どうすれば良いのかという目標がはっきりしているということである。目標もはっきりしないままに我武者羅に努力したところで、大した成果にはならないのである。

2001/08/28(Tue)
生きる意味

 人はよく「何のために生きるのか?」という疑問を持つ。私も大学1年の春休み、暇で暇で仕方ないときには「自分は何のために生きてるんだろう…?」と悩んだことがあった。しかし、普段は『生きる意味』について何の疑問も持たない。

 それは、私が『生きる意味』の答えを持っているからではない。それを疑問に思う必要性を感じない…ということである。「人はみな、生きる意味を見つけるために生きている」なんてことを耳にするが、私はそうは思わない。少なくとも私は生きる意味なんて探していないし、それを探し出したところで何になるというのだろう?…という感じである。

 敢えて『生きる意味』の答えを提案するなら、それは「自分のため」である。全ての人間は自分のために生きている、私はそう考えている。

 例えば、「死にたくないから生きている」と言う者は明らかに自分のために生きている。「自分が死んだら誰かが悲しむから…」と言う者は、下手な言い訳をしているだけで、結局は「死にたくない」と言っているのと同じである。

 では、人のために献身的に生きている者はどうなのか?…という話になるかもしれないが、彼らも間違いなく自分のために生きている。なぜなら、彼らは「誰かのために生きたい」「人の役に立ちたい」という彼らの価値観に基づいて生きているからである。

 世の中には、自分のために生きることを悪と考え、自分の生き方に罪を感じ、「本当の生きる意味とは…?」「世に求められる生き方とは…?」と考え込む人々が大勢いるようだが、自分のために生きることは決して悪いことではない。すべての人間は自分のために生きているのである。

 「なんてヒドイ奴だ!」と非難する者がいるかもしれないが、私は間違いなく自分のために生きているし、その生き方に疑問は感じない。自分の命だ!自分の人生だ!自分のために費やして何が悪い?…という感じである。

 とにかく、『生きる意味』なんて知らなくても良い。今日を生きている私たちには明日がある、だから明日も生きてみよう…それで良いではないか。

2001/09/10(Mon)

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