ホーム > コラムの部屋 > その他


カテゴリ一覧
なんちって哲学
社会問題
時事ネタ
自己分析
その他
愚 痴
幸せのかけら
親の仕事
恋 愛
価値観の相違

愚 痴

 私はよく愚痴を言う。それは悪いことだとは思わない。ただし、主観ではない悪口は好まない。私の意見としては、自分が実際に「嫌いだ」と感じたことを、ストレートに「嫌いだ」と表現することは悪いことではない。

 しかし、世の中には主観的に考えられない人が大勢いる。「友達が嫌いだと言うから自分も嫌いだ」とか「マスコミが良くないと騒いでいるから、それは悪いことに違いない」などと考える。

 私自身、友達が嫌っている人に対しては「あまり良い人ではないのでは…?」という感情を抱きそうになることがある。しかし、よく考えてみると嫌いになる要素が見当たらない。

 友達は主観で「嫌いだ」と判断したのだから、それは仕方のないことだと思うが、特別な理由も感情もないのに人を嫌いだと判断してしまうのは情けない。

 もっと自分で考え、判断し、噂などに流されない強い心を持たなければならない。友達に対して「自分はそうは思わない」と言える勇気を持たなければならない。お互いのために…。

2000/05/31(Wed)
幸せのかけら

 世の中、良いことばかりではないけれど、探せばきっと誰でも幸せが見つかるはず…私はそう信じている。人は誰でも贅沢に溺れると幸せが見えなくなってしまう。大抵の場合、幸せはやって来る時と去っていく時だけ顔を出すように思える。でも、本当はどこか近くに潜んでいて、じっと私の方を見ているに違いない。気づけば目の前にある現実が私にとっての幸せなのかもしれない。振り返るとそこにあるもの…それが私にとっての幸せなのかもしれない。見上げたらそこにあるもの…それが私にとっての幸せなのかもしれない…

 幸せなんて、気づかないだけでいくらでも転がっている。一つ一つは小さな幸せのかけらかもしれないけれど、拾い集めたら大きな幸せになる。そのかけらを軽んじて、拾う労力を惜しむ人間は不幸である。不幸とは、環境に恵まれないことではなくて、自分の周りに転がる些細な幸せに気づけないことを指すのではないだろうか?…なんて思う。こんな風に書くと、「お前は環境に恵まれているから、そんなことが言えるんだ!」と反感を買うかもしれないが、私だって別に大して恵まれた環境でもない。少なくとも私より環境的に恵まれている人間はいくらでも居るし、病気のことを考えるなら私は普通の人よりも恵まれていない…でも、私は私なりに幸せであると自信を持って言える。

2001/06/17(Sun)
親の仕事

 最近では多少は収まってきたのかもしれないが、世の中は学歴社会なんて呼ばれている。はっきり言って私も学歴社会の人間なのだろう。しかし、よく耳にする子どもの塾通いなどはどうかと思う。はちまきを巻いて、「絶対合格するぞ!」なんて叫んでいる子どもなどは可哀相で見るに堪えない。

 もし子どもができたとしても、私は「勉強」を強要する気はない。でも、馬鹿な人間に育ってもらうつもりもない。少し分かりにくいかもしれないが…とにかく、子どもは遊んでいれば良いと思う。…と言うより、子どもは遊ばなくてはいけないと思う。「子どもは遊ぶことが仕事」みたいなことを耳にすることがある。少し意味合いが違うかもしれないが、「かわいい子には旅をさせよ」という諺もある。まさにその通りだと思う。

 頭の良い人間を育てたいのであれば、それだけ子どもの頃から色々なことを学んでもらう必要がある。それは正論である。しかし、何を勘違いしたのか幼い頃から机上の勉強をさせる親がいる。それは絶対に間違っていると思う。

 小さな部屋に閉じ込め、電灯照明のもと、冷暖房完備された快適な温度で、イスに座って机に向かったままで、子どもたちに何を学べというのだろう? 何も学べやしないであろう。しかも、子どもの勉強することと言ったら、すでに答えが決まっていることばかりである。それでは、子どもの豊かな発想力などを削ぎ落としているようなものだと思う。可哀相である。

 それよりも、外に出て走りまわっている方が明らかに学ぶことが多い。世の中にはいろんなことがある、いろんな人がいる、いろんな場所がある…そういうことを身をもって知ることができる。夏の暑さやら冬の寒さやら…陽射しの眩しさやら夜の暗さやら…草木の匂いやら土の感触やら…風の気持ち良さやら虫の鳴き声やら…何もかもが子どもにとっては新たな学びである。

 例えば、外で遊んでいたら何か見知らぬ虫に出合った。突付いてみた。動かなくなった。どうやら死んでしまったらしい…これが子どもにとっての学びである。このとき、親の仕事は虫の名前を教えることではない。殺してはダメだと叱ることでもない。ただ、可哀想なことに死んでしまったようなので埋めてあげよう…とすれば良いのだ。

 また、近くに大きな道がある。そのとき、「この道路は危ないから渡るな」と教える親がいる。しかし、それは間違っている。どうしたら安全に道路を渡れるのか、それを教えるのが親の仕事である。

 私がもし親になったら、子どもと一緒にセミの幼虫が成虫になるのを一晩かけて観察したいと思っている。ちょっとした夢である。少なくとも私は、親と一緒に成虫になるのを観察した覚えがある。ちょっと奇形をもって生まれたセミだったけれど…次の日、元気に飛び去って行った。私にとっては大切な経験だったと思う。

2001/08/25(Sat)
恋 愛

 私は恋愛に対して一つのこだわりがある。「恋人が欲しい」で始まる恋愛は薄っぺらい。私の求める恋愛は、「あの人と恋人になりたい」で始まる恋愛である。

 何が違うのか分からないかもしれないが、「恋人が欲しい」から始まるというのは、誰でも良いから恋人という存在が欲しいという考え方である。世の中には「寂しさ」に耐えられない人が多くいる。そういう人は、常に恋愛をしていて、何人もの相手と恋をしていて、あたかも恋愛の玄人のように思える。でも、実際には素人だと思う。なぜなら、恋愛というものが分かっていないのだから。寂しさと恋心は違う。「誰かに側にいて欲しい」と「あの人と一緒にいたい」は違うのだ。

2004/11/13(Sat)
価値観の相違

 離婚する夫婦が後を絶たない今日、その離婚原因は「価値観の相違」が最も多いと言われる。しかし、違う家庭に生まれ、違う環境で育って別人なのだから、価値観が全く一緒ということはあり得ない。価値観は違って当たり前なのである。

 では、なぜ「価値観の相違」が問題となるのか。答えは簡単。つまり、自分の価値観を相手に押し付けようとしているから≠ナある。

 例えば、「部屋はきれいにしておきたい男性」と「部屋が汚れても気にならない女性」が結婚したとする。このとき、男性は「きれいにしておきたい」という自分の価値観に基づいて部屋を片付ける訳だが、女性はもちろん片付けない。男性は「部屋をきれいにしておきたい」という価値観があるので、掃除をしない女性に対してマイナスの感情を抱いたり、場合によっては「掃除しろ」と強要したりする。

 しかし、私からすれば、男性はきれいにしたいから片付けるし、女性はきれいにしなくていいから片付けない。それが当たり前だと思う。このとき男性は「誰かが片付けなければ汚れていくから自分が仕方なく片付ける」だとか「自分ばかり片付けて不公平だ」なんてことを思うかもしれない。でも、それこそが価値観の押し付けであって、「部屋は片付いてなければならない」という価値観があるからこその思考である。

 この場合、一般的な価値観≠ネんてものは捨てた方が良い。「普通、部屋はきれいにするものでしょ!」なんて思うかもしれないが、何をもって普通とするかなんて個々の考え方によるところが大きい。だって、部屋が汚くても平気という男性にとって普通ではない♂ソ値観を持った人間がすぐそこにいるのだから。

 例えば、このケースで「自分の価値観は自分の価値観、相手の価値観は相手の価値観」と考えることができたとしよう。男性は部屋をきれいにしたいから片付けるし、女性は片付けなくて良いから片付けない。ただそれだけ。各々の価値観に基づいて行動しているだけなら何も衝突は起きない。

 もう1つ極端な例を挙げてみると、ギャンブル好きの男性がギャンブルにたくさんのお金を費やしてしまう家庭があったとする。この妻に「ギャンブルなんてお金の無駄使い」という価値観があるとして、その価値観を相手に押し付けるなら「ギャンブルにお金を使うな」と衝突するだろうし、相手の価値観として尊重するのであれば「自分はギャンブルをしないが、相手にはギャンブルをさせる」という行動になるはずである。ただし、この場合は金銭が絡んで、他の生活などにも影響を及ぼすだろうから、ギャンブルに対する価値観だけでは何ともならないだろうけど。

 いずれにしても、これだけは許せないという価値観は少なからずあるとして、基本的には価値観は違っていて当たり前≠ニいう視点に立って物事を考えることで、回避できる衝突も多いように思う。これまでの人生をかけて培ってきた個々の価値観は、ちょっとやそっとでは変わりはしないのだから。

2006/07/24(Mon)

- Mobile Frontier v2.1 -