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価値観の相違

 離婚する夫婦が後を絶たない今日、その離婚原因は「価値観の相違」が最も多いと言われる。しかし、違う家庭に生まれ、違う環境で育って別人なのだから、価値観が全く一緒ということはあり得ない。価値観は違って当たり前なのである。

 では、なぜ「価値観の相違」が問題となるのか。答えは簡単。つまり、自分の価値観を相手に押し付けようとしているから≠ナある。

 例えば、「部屋はきれいにしておきたい男性」と「部屋が汚れても気にならない女性」が結婚したとする。このとき、男性は「きれいにしておきたい」という自分の価値観に基づいて部屋を片付ける訳だが、女性はもちろん片付けない。男性は「部屋をきれいにしておきたい」という価値観があるので、掃除をしない女性に対してマイナスの感情を抱いたり、場合によっては「掃除しろ」と強要したりする。

 しかし、私からすれば、男性はきれいにしたいから片付けるし、女性はきれいにしなくていいから片付けない。それが当たり前だと思う。このとき男性は「誰かが片付けなければ汚れていくから自分が仕方なく片付ける」だとか「自分ばかり片付けて不公平だ」なんてことを思うかもしれない。でも、それこそが価値観の押し付けであって、「部屋は片付いてなければならない」という価値観があるからこその思考である。

 この場合、一般的な価値観≠ネんてものは捨てた方が良い。「普通、部屋はきれいにするものでしょ!」なんて思うかもしれないが、何をもって普通とするかなんて個々の考え方によるところが大きい。だって、部屋が汚くても平気という男性にとって普通ではない♂ソ値観を持った人間がすぐそこにいるのだから。

 例えば、このケースで「自分の価値観は自分の価値観、相手の価値観は相手の価値観」と考えることができたとしよう。男性は部屋をきれいにしたいから片付けるし、女性は片付けなくて良いから片付けない。ただそれだけ。各々の価値観に基づいて行動しているだけなら何も衝突は起きない。

 もう1つ極端な例を挙げてみると、ギャンブル好きの男性がギャンブルにたくさんのお金を費やしてしまう家庭があったとする。この妻に「ギャンブルなんてお金の無駄使い」という価値観があるとして、その価値観を相手に押し付けるなら「ギャンブルにお金を使うな」と衝突するだろうし、相手の価値観として尊重するのであれば「自分はギャンブルをしないが、相手にはギャンブルをさせる」という行動になるはずである。ただし、この場合は金銭が絡んで、他の生活などにも影響を及ぼすだろうから、ギャンブルに対する価値観だけでは何ともならないだろうけど。

 いずれにしても、これだけは許せないという価値観は少なからずあるとして、基本的には価値観は違っていて当たり前≠ニいう視点に立って物事を考えることで、回避できる衝突も多いように思う。これまでの人生をかけて培ってきた個々の価値観は、ちょっとやそっとでは変わりはしないのだから。

2006/07/24(Mon)
恋 愛

 私は恋愛に対して一つのこだわりがある。「恋人が欲しい」で始まる恋愛は薄っぺらい。私の求める恋愛は、「あの人と恋人になりたい」で始まる恋愛である。

 何が違うのか分からないかもしれないが、「恋人が欲しい」から始まるというのは、誰でも良いから恋人という存在が欲しいという考え方である。世の中には「寂しさ」に耐えられない人が多くいる。そういう人は、常に恋愛をしていて、何人もの相手と恋をしていて、あたかも恋愛の玄人のように思える。でも、実際には素人だと思う。なぜなら、恋愛というものが分かっていないのだから。寂しさと恋心は違う。「誰かに側にいて欲しい」と「あの人と一緒にいたい」は違うのだ。

2004/11/13(Sat)
自衛隊派遣

 再びテロ事件に関連して思ったことを書きたいと思う。最近、日本の自衛隊が戦争(?)に参加するかどうかでゴチャゴチャと揉めているようである。そこで一言…日本人は平和ボケし過ぎである!

 まず、未だに武力行使を否定する人々…彼らは本気で平和的な解決ができると考えているのであろうか? よく考えてみて欲しい。相手は予告なしにあれほど大規模な無差別殺人ができる奴らである。話し合いができないからテロ行為に及んでいる訳であって、話し合いができる人間なら最初からテロ行為なんてしないのである。だから、平和的な解決なんて望むだけ無駄である。そんな甘ったれたことを言っていては、テロが蔓延る世の中になってしまう。

 また、自衛隊派遣に関して「報復は報復を呼ぶ。自衛隊を参加させると、日本が標的になるかもしれない…」なんてことを言っている人がいる。お前は阿呆か?…という感じである。「テロはアメリカを狙った。日本人も何人か死んだが、それは事件に巻き込まれただけだ」なんて勘違いをしている人が多すぎて困る。日本はすでに標的であって、今回の事件はアメリカとテロだけの問題ではない。そして、テロを撲滅しようとするアメリカを日本が助けるのではない。テロを撲滅すべく、他国とともに日本も立ち上がるのである。

 「今回は安全でない地域にも自衛隊が行く」なんてことも耳にするが、そんなの当たり前である。「危険なところに行きたくなければ自衛隊に入れ」みたいに風刺されているらしいが、何だかんだ言って自衛隊も軍隊である。一般市民が大勢犠牲になっている今回の事件、戦争が始まればまだまだ犠牲が増えていくことであろう。そのような中、できるだけ被害が大きくならないよう、軍隊である彼らが頑張るのである。命をかけて闘う気がないなら、自衛隊になんて入らなければ良い。彼らは自ら志願して自衛隊に入り、日々訓練しているのだろう。今こそ世の平和を維持するために自分が活躍するときである…と、目を輝かせても良いくらいである。「自衛と戦争は違う」なんてことを言う人がいるかもしれないが、今回の戦争は自衛である。なぜなら、上述のように日本もテロの標的になっており、日本人が安心して、もしくは安全に生きていくためには、テロ撲滅が必要だからである。

2001/09/27(Thu)
同時多発テロ

 最近、ニュースと言えばアメリカ同時多発テロ事件ばかりである。民間旅客機を利用したテロ、敵ながら見事である…などと誉めたら怒られてしまうかもしれないが…とにかく歴史に残る大事件である。

 報復攻撃をするか否かについて議論が起きているようだが、私は報復攻撃に賛成である。死刑反対派の私であるが、刑罰というものは絶対に必要だと考えている。身近なところでは、学校から体罰をなくそうとする人は馬鹿としか思えない。世の中、謝って済む問題と済まない問題があるのである。

 今回ほどのテロを放置すれば、もしくは平和的に話し合いで解決させるならば、気軽にテロ活動のできる時代が誕生するであろう。『テロをすれば、恐ろしい報復が待っている』という絶対の法則が必要である。一度でも甘やかすと、そこに境界線が敷かれてしまい、「これくらいのテロならしても良い」という暗黙の法則が生じてしまう。決して甘やかしてはいけないのである。

 ただし、報復攻撃をする前には徹底的な調査が必要であり、テロに関与していない人間を巻き込まないように努力する必要がある。「努力」という少しいい加減な表現をしたが、残念ながら他の人を全く巻き込まないなんて不可能である。しかし、テロは被害を受けた人だけの問題ではなく、全世界的な問題であるので、みんなで解決していく必要がある訳で、自分だけは何も影響なく生きていきたい…というのは、少し自分勝手である。…と、話が逸れたが、ひとまず「確たる証拠がないのに攻撃すれば、それはテロと同じである」ということを誰かさんも言っていた。正論であろう。

 話は変わるが、ニュースを見ていて気になることを一つ…アメリカは「テロに屈しない」ということを言い過ぎではないだろうか? まるで負け犬の遠吠えのよう…ボコボコに殴られた後に「痛くも痒くもない」と強がっているのと同じである。テロになめられるのが恐いから「テロには屈しない」と叫んでいる訳で、それはつまり「テロが恐い」と叫んでいるのと同じである。どうせなら「蚊に血を吸われて少し痒いけど、叩いちゃえば良いよね?」くらいの発言をしたらどうだろう?

2001/09/15(Sat)
生きる意味

 人はよく「何のために生きるのか?」という疑問を持つ。私も大学1年の春休み、暇で暇で仕方ないときには「自分は何のために生きてるんだろう…?」と悩んだことがあった。しかし、普段は『生きる意味』について何の疑問も持たない。

 それは、私が『生きる意味』の答えを持っているからではない。それを疑問に思う必要性を感じない…ということである。「人はみな、生きる意味を見つけるために生きている」なんてことを耳にするが、私はそうは思わない。少なくとも私は生きる意味なんて探していないし、それを探し出したところで何になるというのだろう?…という感じである。

 敢えて『生きる意味』の答えを提案するなら、それは「自分のため」である。全ての人間は自分のために生きている、私はそう考えている。

 例えば、「死にたくないから生きている」と言う者は明らかに自分のために生きている。「自分が死んだら誰かが悲しむから…」と言う者は、下手な言い訳をしているだけで、結局は「死にたくない」と言っているのと同じである。

 では、人のために献身的に生きている者はどうなのか?…という話になるかもしれないが、彼らも間違いなく自分のために生きている。なぜなら、彼らは「誰かのために生きたい」「人の役に立ちたい」という彼らの価値観に基づいて生きているからである。

 世の中には、自分のために生きることを悪と考え、自分の生き方に罪を感じ、「本当の生きる意味とは…?」「世に求められる生き方とは…?」と考え込む人々が大勢いるようだが、自分のために生きることは決して悪いことではない。すべての人間は自分のために生きているのである。

 「なんてヒドイ奴だ!」と非難する者がいるかもしれないが、私は間違いなく自分のために生きているし、その生き方に疑問は感じない。自分の命だ!自分の人生だ!自分のために費やして何が悪い?…という感じである。

 とにかく、『生きる意味』なんて知らなくても良い。今日を生きている私たちには明日がある、だから明日も生きてみよう…それで良いではないか。

2001/09/10(Mon)
才 能

 私は才能というものを信じている。成功の秘訣は、「1%のインスピレーションと99%のパースピレーション」、つまり「1%のひらめきと99%の努力」…なんて言われたりしている(エジソンの真意は違うらしい)が、私はそうは思わない。“努力”というものは、あくまで才能を補い強めるものに過ぎないと思う。だから、才能がないものがいくら努力してみても、さほどは伸びない。才能があるものが努力すれば、それなりの結果を残すことができる…そう考えている。

 努力…素敵な言葉に聞こえるが、努力なんて簡単にできるものではない。誰かに強制されてする、もしくは嫌々ながら仕方なくする…そんな感じである。努力とは苦しいのに我慢して頑張ること…だから、人は努力を美徳と考えるのであろう。

 しかし、本当の努力とは気付かないところで行われているものだと思う。ここで、さきほどの才能の話と繋がるのだが、あることを「好き」だと思えるのは、そのことに対する才能がかなりあるということである。なぜなら、努力を楽しむことができるから。他人から見たら凄い努力をしているように見えても、当人には努力をしている自覚もなく、ただ好きなことに熱中しているだけなのである。

 また、もうひとつの才能の定義として、私は「イメージする能力」というのを挙げたい。つまり、成功した自分の姿を想像できない者に成功は掴めないと思うのである。成功した自分をイメージできるということは、どうすれば良いのかという目標がはっきりしているということである。目標もはっきりしないままに我武者羅に努力したところで、大した成果にはならないのである。

2001/08/28(Tue)
親の仕事

 最近では多少は収まってきたのかもしれないが、世の中は学歴社会なんて呼ばれている。はっきり言って私も学歴社会の人間なのだろう。しかし、よく耳にする子どもの塾通いなどはどうかと思う。はちまきを巻いて、「絶対合格するぞ!」なんて叫んでいる子どもなどは可哀相で見るに堪えない。

 もし子どもができたとしても、私は「勉強」を強要する気はない。でも、馬鹿な人間に育ってもらうつもりもない。少し分かりにくいかもしれないが…とにかく、子どもは遊んでいれば良いと思う。…と言うより、子どもは遊ばなくてはいけないと思う。「子どもは遊ぶことが仕事」みたいなことを耳にすることがある。少し意味合いが違うかもしれないが、「かわいい子には旅をさせよ」という諺もある。まさにその通りだと思う。

 頭の良い人間を育てたいのであれば、それだけ子どもの頃から色々なことを学んでもらう必要がある。それは正論である。しかし、何を勘違いしたのか幼い頃から机上の勉強をさせる親がいる。それは絶対に間違っていると思う。

 小さな部屋に閉じ込め、電灯照明のもと、冷暖房完備された快適な温度で、イスに座って机に向かったままで、子どもたちに何を学べというのだろう? 何も学べやしないであろう。しかも、子どもの勉強することと言ったら、すでに答えが決まっていることばかりである。それでは、子どもの豊かな発想力などを削ぎ落としているようなものだと思う。可哀相である。

 それよりも、外に出て走りまわっている方が明らかに学ぶことが多い。世の中にはいろんなことがある、いろんな人がいる、いろんな場所がある…そういうことを身をもって知ることができる。夏の暑さやら冬の寒さやら…陽射しの眩しさやら夜の暗さやら…草木の匂いやら土の感触やら…風の気持ち良さやら虫の鳴き声やら…何もかもが子どもにとっては新たな学びである。

 例えば、外で遊んでいたら何か見知らぬ虫に出合った。突付いてみた。動かなくなった。どうやら死んでしまったらしい…これが子どもにとっての学びである。このとき、親の仕事は虫の名前を教えることではない。殺してはダメだと叱ることでもない。ただ、可哀想なことに死んでしまったようなので埋めてあげよう…とすれば良いのだ。

 また、近くに大きな道がある。そのとき、「この道路は危ないから渡るな」と教える親がいる。しかし、それは間違っている。どうしたら安全に道路を渡れるのか、それを教えるのが親の仕事である。

 私がもし親になったら、子どもと一緒にセミの幼虫が成虫になるのを一晩かけて観察したいと思っている。ちょっとした夢である。少なくとも私は、親と一緒に成虫になるのを観察した覚えがある。ちょっと奇形をもって生まれたセミだったけれど…次の日、元気に飛び去って行った。私にとっては大切な経験だったと思う。

2001/08/25(Sat)
未 来

 『戻れるなら何歳に戻りたい?』と聞かれたら、何と答えるだろう? 今の私には、過去の自分に戻りたいという気持ちがない。何歳の私を思い浮かべても、今の私ほど幸せではないし、今の私は過去の私よりも成長できている気がするから…。

 どちらかと言えば、私は未来の自分に興味があります。この先にどんなことがあっても、私は私で居られる気がするし、未来の私は今の私よりも成長できている気がするから…そして、未来の私は今の私を羨ましく思わないほどに幸せな日々を送っている気がするから…。

 私は私の成長を楽しんでいます。未来の私がどんな人間に成長しているのか…それが私には楽しみであり、生きがいなのかもしれません。

2001/06/24(Sun)
幸せのかけら

 世の中、良いことばかりではないけれど、探せばきっと誰でも幸せが見つかるはず…私はそう信じている。人は誰でも贅沢に溺れると幸せが見えなくなってしまう。大抵の場合、幸せはやって来る時と去っていく時だけ顔を出すように思える。でも、本当はどこか近くに潜んでいて、じっと私の方を見ているに違いない。気づけば目の前にある現実が私にとっての幸せなのかもしれない。振り返るとそこにあるもの…それが私にとっての幸せなのかもしれない。見上げたらそこにあるもの…それが私にとっての幸せなのかもしれない…

 幸せなんて、気づかないだけでいくらでも転がっている。一つ一つは小さな幸せのかけらかもしれないけれど、拾い集めたら大きな幸せになる。そのかけらを軽んじて、拾う労力を惜しむ人間は不幸である。不幸とは、環境に恵まれないことではなくて、自分の周りに転がる些細な幸せに気づけないことを指すのではないだろうか?…なんて思う。こんな風に書くと、「お前は環境に恵まれているから、そんなことが言えるんだ!」と反感を買うかもしれないが、私だって別に大して恵まれた環境でもない。少なくとも私より環境的に恵まれている人間はいくらでも居るし、病気のことを考えるなら私は普通の人よりも恵まれていない…でも、私は私なりに幸せであると自信を持って言える。

2001/06/17(Sun)
劣等感

 劣等感というものを持たない人はいないと思います。私にもたくさんの劣等感がありました…そして、そのいくつかは未だに劣等感であり続けています。でも、克服できたことも数多い気がします。

 例えば、小学生時代の私にとって、水泳が最大の敵でした。そう…私は泳げなかったのです。自分では頑張っているつもりでも、なかなか前に進めない…身長の低い私はプールの底に足が届かない…やせ細った私は、紫色の唇をして震えてしまう…。でも、今ではスキューバ・ダイビングのライセンスを持っています。もちろん器材なしでも普通には泳げます。

 例えば、高校生時代の私はカラオケに行くと「みんなの前で歌うのは…ちょっと恥ずかしいかもね。」などと言われていました。そう…私は音痴だったのです。自分でも下手なのは分かっていました。リズムがとれないし、音はよく分からないし…。でも、それが悔しかったために歌い方などを工夫して、今では「うまいね。」と言ってもらえるようになりました。

 例えば、大学に入った頃の私は、両親なしで生活する自信がありませんでした。友達と旅行に行った経験すらほとんどなく、何をするにも親を頼ってばかりいました。でも、大学に入ってから2回のホームステイを経験しましたし、親なしでも何とか生活していく自信が持てるようになりました。

 もちろん、なかなか改善できないことも数多くありますが、私は確実に成長しています。もしかしたら他の人よりも成長が遅いかもしれません。自分では成長したつもりでも、まだまだ未熟なのかもしれません。でも、私は私なりに成長していけば良いと考えています。できない自分を責めるのではなく、「ちょっと思い浮かべるだけでも、私はこんなに成長してきているじゃないか!」と、できた自分を称え励まして、私は前へ前へと進んでいきます。今の自分に足りないものは、これから補えば良いのです。補うことができないものなら、他を伸ばしてカバーすれば良いのです。

2001/05/28(Mon)

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